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Revolution of the Heart

ハートの革命

「頭からハートへ、そしてハートから腹へと降りる」

生命そのものの旅をたどっていきます

OSHO

神に関していえば、それは全ての感覚を超越し、全ての感覚を超えたものであり、その体験は遥か彼方のものだ。それは究極的な体験だ。それを超えるものはない。覚醒する可能性は、あらゆる人の内側に生まれながらにありながらも、実際には覚醒を遂げる人がほとんどいないのはそのためだ。
しかし、私たちの中の一人が覚醒した時には、常にその覚醒は多くの人々の神に対する潜在的な渇きをかき立てる要因の一つとなる。クリスなのような人が出現したら、その人に見られるだけで、その人がいるだけで、私たちの中で久しく眠っていたものが目覚め始める。

神への渇き、渇望は私たち一人一人の中にある。しかもそれは生まれながらにしてあるものだ。とろこがそれは抑圧され、目覚めることを許されない。それにはさまざまな理由があるが、その中で最も重要なのは、私たちを取り巻く巨大な群衆、共に生きる莫大な数の群衆に、その渇きが全くないということだ。

​そのため、ある人にその渇きが生じ始めても、その人はすぐにそれを抑圧してしまう。なぜなら、そのようなことは気狂い沙汰のように思えるからだ。

 OSHO「奇跡の探究」より抜粋

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Swami.Yoga.Chinmaya

真実の探究は、人生と存在の謎の探究です。

生命があり、世界があり、存在があり、感覚があり、知性があります。しかし、これら全てにも関わらず、人生の真実は未知であり、馴染みのないものです。そしてこの無知、人生に対する不慣れさは苦痛です。

そして、人間が人生の流れの中で到達した発展の段階もまた不十分で不完全なものなのです。広大な可能性に比べれば、人間は単なる種子に過ぎず、そこに眠っているものがたくさん隠されています。人間の中には長い一連の目覚めが待っています。人間の意識は、多くの段階と次元を経て発展しなければなりません。人間の意識が最大限に発揮されるためには、突破しなければならない多くの層、多くの障壁があります。そうしてはじめて真実が達成され、苦しみを超越することができるのです。

(中略)何千年もの間、多くの勇敢な人々が真実、存在、人生の神秘、その計り知れない深淵を求めて偉大な内なる旅に出た長い伝統ががありました。

宗教は知られ、認識され、発見された人間の実存的未発達と内なる旅のプロセスから創造されました。

​科学が物質、世界、物理的な生命の謎を発見したのと同様に、実存的な内なる魂と意識の世界が発見され、その神秘的な科学が宗教によって発展してきました。


OSHO「奇跡の探究」
スワミ・ヨガ・チンマヤによるヒンディー語序文より抜粋

ハートの革命

Revolution of the Heart with Krishna Sarasvati

「考えすぎる」現代社会では、情報の洪水に息も絶え絶えになって疲労が重な理、常に頭を使い続けることで、人は自分の本質から遠ざかっています。その状態から「ハートへ戻っていくこと、感性や直感が湧き起こる場所へと戻っていくことができるでしょうか?
この瞑想グループでは、

「頭からハートへ、そしてハートから腹へと降りる」

生命そのものの旅をたどっていきます

考えすぎるマインドを鎮め、ハートで感じることを取り戻すのです。

ハートで生きることは、人生に本質的な豊かさをもたらし、最終的には、腹(直感)で決断できるようになること、それこそが「ハートの革命」です。

体験することの重要性

瞑想も食事も、すべては「体験」が重要です。

ピザを薪のオーブンで焼くと、電子レンジとは全く違う味わいになります。

お米や野菜を炊飯器で炊き上がるのを待つ間、ダンスや瞑想をすると、食事の時間そのものが深い体験になります。

ティーバッグで淹れたお茶と、禅マスターが淹れるお茶では、全く違う味合いになることは想像に難くありません。

すぐに結果を求めるのではなく、プロセスそのものを味わうこと。それが瞑想的に生きることにつながっていきます。

水に飢えている人は、水を見つける

 探求の旅にある人は、必ず必要なものに出会うようになっています。だから焦ることなく、自分の流れに身を任せ、「正しい人は正しい時に正しいものを見つける」ことを信頼すること。

人生は目的地を求めるものではなく、旅そのものがゴールなのです。

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